群馬県上野村村長 黒沢丈夫さんの話から
豊かな山河をめざして
村役場の前を神流川が流れている。川底の小石一つ一つがくっきり見えた。
「この川は村民の宝です。この清流のおかげで村人がどれだけ故郷を誇りを持ったか。」と黒沢さんはいう。
ひところ、川のカジカはどんどん姿を消していった。原因は農薬か、山の除草剤か。結局、村の人家の雑排水と分かった。
村は補助金を付け、各家庭で浄化槽を設置した。現在六十%普及、二、三年で九十%にする。
川は下流で利根川に注ぎ、首都圏の水源となる。
『いろんな魚が泳ぐ川、四季美しい広葉樹の山』を目指して村づくりを進めている。村内には国有林、民有林など約一万六千余ヘクタール、人工林は三四%である。
「何年か前、台風の後の山の航空写真を見た。赤茶けて枯れたのはカラマツでした。雨と風の中、次々に倒れて、山崩れを起こす。広葉樹は岩にも土にも深く根を張る。山崩れに強いのは雑木林です。水源林としても広葉樹がいい。
一番よく知っているのはミミズですよ。スギ、ヒノキの下にはいなくても広葉樹の下にはいる。」
「村起こしとして、広葉樹を利用した木工業も始めた。かつて弱電関係の工場や縫製工場を誘致した。だが不況になると、山村の工場は最初に操業短縮、閉鎖された。
人の資本、人の経営に依存して村の産業を起こそうとしても駄目だ。そこで思いついたのが木工でした。材料は村にある。売り上げ二億円を超すまでに育った。」
黒沢さんは、海軍出身の元少佐、零戦の飛行隊長だった。戦闘中、愛機に三発、弾を受けたことがある。
「先輩達を見てると、学校の成績と指揮官としての能力、人間の深みは別でした。」敗戦でふるさとの上野村に帰り、農林業を営む。村長になって八期目、七十九歳である。
一昨年から、村の中学三年生全員を一週間程カナダでホームステイさせている。一人当たり五十万円の費用は村が出す。
「山の学校の卒業生であっても、世界に目を開く教育をしてやりたい。写真や文字ではなく、実際の世界を知って、そこから日本や上野村のことを考えてほしいのです」。
戦前の海軍時代、遠洋航海でアメリカに行き、豊かさに衝撃を受けた。体験の重さを実感している。
昭和六十年夏、村の御巣鷹山に日航機が落ちた。道案内、遺体捜索、炊き出しと大勢の村民が奉仕した。
全国から千件を超す礼状や寄付が寄せられ、村人はびっくりした。
村では、祭り、葬式、道路工事、みな互いの助け合いだ。
連帯感と協力を実感できる社会は山村や離島だという。
「札束をつめて無人島に行っても何ができるか。日本は経済、経済というが、我々を豊かにしてくれるのは金じゃない。人の協力ですよ。都市だけで日本は成り立つのか。」
村長一期目の時、村の人口は三千五百余人、だが、八期目の今、千七百余人。「過疎対策は、日本社会の価値観に対する挑戦です」。全国山村振興連盟副会長でもある。
(1993年8月1日朝日新聞) 文:畦倉実 写真:上田穎人
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