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パナシ

159,日雇いの母の仕送り

 本棚を片付けていたら、11年位前の新聞記事を見つけ、読んでみるとまた涙が出てきました。

日雇いの仕送りに支えられて

 小柄な母に、ゴールへ飛び込む息子の姿は見えなかった。スタンドの一番後ろの席だった。スタートの合図と同時に、目の前の大観衆が一斉に立ち上がった。三十数秒後、万歳をする手で視界がいっぱいになった。「ああ、勝ったんだ」と思った。
 清水津江子さん(59)はこの日、金メダリストの母になった。夫の均さんが九年間の闘病の末に亡くなったのは七年前だ。四人のきょうだいの末っ子の清水選手は、まだ高校生だった。
 津江子さんに泣いている暇はない。建設現場の作業員として働き始めた。汚水管の中に入って継ぎ目をふさぐ。
大型の金づちでコンクリートを砕く。免許を取り、大型ローラーで地固めもした。小柄な体にはきつかった。
 最初は勝手がわからず、現場の監督によくしかられた。「でもね、外で働く方がお金になるんですよ。冬は雪で仕事がないから、息子の試合の応援に行けるし……」
 生活は苦しかった。清水選手はスケートのおかげで高校、大学と授業料は免除された。
でも、試合に出るための遠征費の半分は、自分で負担しなければならない。大学二年のとき、費用が足りず、ワールドカップを三戦、欠場した。
「長男も娘たちも、みんな必死で働いて息子に仕送りしたんですが……。私がふがいなかった」
 いま、清水選手は海外遠征にいくたびに、「かあちゃん、みやげ持ってきたぞ」とスカーフや時計やブローチを買ってくる。
「日雇い仕事をしていた私には、エメルスだかエルメスだかの高級ブランドなんてもったいない」と、たんすの肥やしになっている。
 津江子さんは、「スケートは夫の形見なんです」という。壮絶な父子だった。
足が少し不自由だった均さんは、三歳でスケート靴をはいた息子に、五輪の夢を託した。
 友達と遊びに行こうとすると、「三十分で戻って来い」と命じ、毎日リンクへ通わせた。転ぶとどなり、言った通りに滑らないと殴った。
 ガンの宣告を受けたとき、清水選手は、まだ小学校二年生だった。
「死」の実感がわかない息子に、「スケート靴は命の次に大切だ。お父さんがいなくなっても、一人で刃を研げるようにならなきゃだめだよ」と話すのを見て、津江子さんは涙が止まらなかった。
 入院しても、息子が見舞いに来ると知ると、いすにきちんと座り、「強い父」を装った。
そして、「ここへ来る暇があったら練習しろ」としかった。
 均さんの通夜を終えた深夜、清水選手は突然、トレーニングウエアに着替えた。二月の寒い夜だった。
「今日も走るの」と驚く母に「おやじなら『走れ』と言うに決まっている」と言って、泣きながら飛び出していった。
 母は涙もろい、と清水選手は言う。
 その通り、スタート前からずっと、白いハンカチで目を押さえていた。コートのポケットに、夫、均さんの遺影を忍ばせていた。
 ゴール後ピンクの小さな額縁に入った写真を、そのハンカチでそっとくるんだ。
 「夫もびっくりするでしょう。特別な思い入れのあったスケートと息子ですから」
 日の丸を振ってウイニングランをする清水選手が母を見つけ、にっこり笑った。そして、手で目を覆った。
 それを見た母は、今度は声をあげて泣き始めた。 
 五輪の前、津江子さんは、息子の太ももに触った。「そしたら、すごく硬いんですよ。この足で滑るんだなあって、何か感動してしまいました」
 母にもらったその足で、小さな息子(161cm)は勝った。
 息子、清水宏保(ひろやす)23歳長野オリンピックスピードスケート金メダリスト(平成12年 朝日新聞)

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作成者: パナシ

雑学大好き、何でもやりっぱなしが多い。

「159,日雇いの母の仕送り」への3件の返信

自分だけ色々なものを背負って生きづらくて、、、不平等で不幸ではないか、と思う日もありました。
置かれた状況下を知り得ないだけで、
必死に悲しみを乗り越えて前向きに生き続けている人がいること。
自己中心的な思考しかできない自分が
恥ずかしくなりました。
みんな頑張っているから自分も頑張ろうという気持ちになれました。

コメントありがとうございます。私は、この清水選手の記事を読むたびに涙が出てきます。同時に、自分も頑張ろうと元気をもらっています。人は自分のためだけに生きているのではなく周りのために、そしてその周りに自分も生かされているんですね。人間っていいなあ。本当にそう思います。これからもこういう記事を見つけたら、皆さんに発信していきたいと思います。感謝!

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