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144,自分の言葉を使え


私の先生」  神津カンナ

 亡くなった私の祖父は、中村正常という名の作家であったが、おそらく、その名を記憶している人はほとんどいないだろうと思う。

 祖父は,昭和の初期に台頭したナンセンス文学というものを書いていた作家の一人で、横光利一氏、龍胆寺雄氏、吉行エイスケ氏などが仲間であつた。 しかしナンセンス文学は、台頭して間もなく、軍国主護の流れの中で衰退していってしまう。

 時代や政治への批判を、ユーモアやナンセンスのオブラートに包んで作品に仕上ていた祖父は、次第に書く場を失い、やがて「言論の弾圧をするような国では、二度と再びぺンを持つことはしない……」という宣言と共にぺンを折ってしまう。

そして、ほんとうに、平和な時代がやってきても、ペンを執ろうとはしなかった。

 祖父は、私を大変かわいがってくれた。そして、この祖父との出会いが、私をもの書きの道に進ませた一つの原因になっているのではないかと思う。つまり、私にとって祖父は、初めての師というわけなのである。

けれども,なかなか厳しい教師であった。
私が「雨がしとしと降っている」などと言おうものなら、すぐさま私に詰問した。

「ほんとうに雨はしとしと降っておるか? ほんとうに君は雨を見て、雨の音を聞いてそう感じるのか? しとしと…というのは,誰かが感じた言葉なんだ。君はそう感じないかもしれない。自分の言葉を使いなさい。人が考えた言葉ばかりを使ってはいけない」

それで私は、仕方なく雨をもう一度見に行き、昔を聞き、そして「あのね,雨がバタチカポカ バタチカポカ降ってるよ」などと、感じた通りを言つた。

すると祖父は満足そうに「そうかそうか」とうなずいてくれた。

 一事が万事そうであった。「鬼のように怖い顔」と言えば、「鬼を見たことがあるのか? 鬼はもしかしたらかわいい、人のよさそうな顔をしている奴かもしれん。知りもしない、見たこともないものを此楡に使うな」とくる。

「牛みたいにのろい」と言えば、「人間と比べると牛は愚鈍に見えるかもしれないが、かたつむりと比べれば、ずっと敏捷だ。そんなに簡単に牛をのろまの代表格に扱うな」とくるのである。

自分の言葉を使え。自分の感じたことを素直に言葉にあらわせ。比喩や慣用句を簡単に使うな。幼い私に祖父は,たえずそう言い続けた。

言葉を扱う商売についた私にとって,その教えは今でも大切なキーポイントである。

※何年か前に、ある雑誌を読んでいたら、神津カンナさんのこのエッセイが出ていて、思わず引き込まれてしまいました。

いろいろなことを考えました。

自分の言葉で表せ!」これは、文章だけでなく、村社会ではなくなった経済優先の今の時代、益々大事なことだと思います。

「上がこういう方針だから…」

「で、あなたはどう考えているの?」

毎日の営みは、血の通った人間同士のやり取りである。

どんなに世の中変わろうとも一緒にやってきた人間を大事にする。日本社会はそういうよさがあったし、「共同意識」それが強みだったはずなのに…。

これからの日本、そんな寂しさを感じつつ、難しいことだが「自分の言葉で話せ」を痛感しています。

この状態を君は何と表現する?自分の言葉で言ってみて!
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143,村を守る

群馬県上野村村長 黒沢丈夫さんの話から

豊かな山河をめざして

 村役場の前を神流川が流れている。川底の小石一つ一つがくっきり見えた。

「この川は村民の宝です。この清流のおかげで村人がどれだけ故郷を誇りを持ったか。」と黒沢さんはいう。

 ひところ、川のカジカはどんどん姿を消していった。原因は農薬か、山の除草剤か。結局、村の人家の雑排水と分かった。

村は補助金を付け、各家庭で浄化槽を設置した。現在六十%普及、二、三年で九十%にする。

川は下流で利根川に注ぎ、首都圏の水源となる。

いろんな魚が泳ぐ川、四季美しい広葉樹の山』を目指して村づくりを進めている。村内には国有林、民有林など約一万六千余ヘクタール、人工林は三四%である。

「何年か前、台風の後の山の航空写真を見た。赤茶けて枯れたのはカラマツでした。雨と風の中、次々に倒れて、山崩れを起こす。広葉樹は岩にも土にも深く根を張る。山崩れに強いのは雑木林です。水源林としても広葉樹がいい。

 一番よく知っているのはミミズですよ。スギ、ヒノキの下にはいなくても広葉樹の下にはいる。」

「村起こしとして、広葉樹を利用した木工業も始めた。かつて弱電関係の工場や縫製工場を誘致した。だが不況になると、山村の工場は最初に操業短縮、閉鎖された。

人の資本、人の経営に依存して村の産業を起こそうとしても駄目だ。そこで思いついたのが木工でした。材料は村にある。売り上げ二億円を超すまでに育った。」

 黒沢さんは、海軍出身の元少佐、零戦の飛行隊長だった。戦闘中、愛機に三発、弾を受けたことがある。

「先輩達を見てると、学校の成績と指揮官としての能力、人間の深みは別でした。」敗戦でふるさとの上野村に帰り、農林業を営む。村長になって八期目、七十九歳である。

 一昨年から、村の中学三年生全員を一週間程カナダでホームステイさせている。一人当たり五十万円の費用は村が出す。

山の学校の卒業生であっても、世界に目を開く教育をしてやりたい。写真や文字ではなく、実際の世界を知って、そこから日本や上野村のことを考えてほしいのです」。

戦前の海軍時代、遠洋航海でアメリカに行き、豊かさに衝撃を受けた。体験の重さを実感している。

昭和六十年夏、村の御巣鷹山に日航機が落ちた。道案内、遺体捜索、炊き出しと大勢の村民が奉仕した。

全国から千件を超す礼状や寄付が寄せられ、村人はびっくりした。

村では、祭り、葬式、道路工事、みな互いの助け合いだ。

連帯感と協力を実感できる社会は山村や離島だという。

札束をつめて無人島に行っても何ができるか。日本は経済、経済というが、我々を豊かにしてくれるのは金じゃない。人の協力ですよ。都市だけで日本は成り立つのか。


 村長一期目の時、村の人口は三千五百余人、だが、八期目の今、千七百余人。「過疎対策は、日本社会の価値観に対する挑戦です」。全国山村振興連盟副会長でもある。
(1993年8月1日朝日新聞) 文:畦倉実 写真:上田穎人

豊かな自然を守り、人づくり 群馬県上野村、黒沢丈夫村長

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142,界面活性剤

「お父さん、今度釣りに行くとき、一緒に連れってってよ。僕やったことないから、やってみたいんだ。」

「ああ、いいとも。そうだな、まずは川がいいかな?」

「海じゃダメ?」

「ダメじゃないけど初めてだったら川が良いよ、少し慣れたら海っていうのが良いよ。」

「でも、お父さん、川って汚くない?」

「ちょっと大きな川に行けば大丈夫だよ。」

「だけど、どうして川は汚いの?」

「お父さんが子供の頃は、田んぼや畑に農薬も使わなかったし、水も奇麗で、ホタルやドジョウやタニシなど色々な生き物がいたよ。
『台所は海の入り口』と言われるけど、昔と違って生活排水の質が変わってきたんだよ。」

「生活排水って?」

「台所の洗いものや調理で出る水、洗濯機の水、お風呂の水など人が生活のために出す水のことさ。
昔は今ほど洗剤を使わなかったからね。」

「どうして洗剤を使いすぎるといけないの?食器なんか綺麗になっていいんじゃないの?」

「うん、水と油は混ざらないの知っているよね?」

「うん。」

「ところが、洗剤は、水と油をうまく混ぜ合わせちゃうんだよ。
混ざりあったものは、『水のような油』とか『油のような水』ということになり、そのまま分けられないで川まで行っているからなんだよ。
水と油の境界をなくしてしまうので『界面活性剤』と呼んでいるけどね。

お皿や鍋やフライパン、衣服、お風呂など奇麗になることはいいことなんだけど、洗剤を多く使いすぎるとどんどん川や海が汚れていくってことになるんだよ。

洗剤の代わりにお湯を使えば、一時的に油が融けて落ち、水と油は混ざらないからいいんだけど、これだけでは取れない汚れもたくさんあるからね。

一番良いのは、川に直接排水を流すんじゃなくて、浄化装置を通せばいいんだろうけどね。それもお金がかかるからなあ。」

「そうなんだ。」

「でも、界面活性剤は、地球環境を汚す悪者のように受け取られることが多いけど、自然の中にも界面活性の働きをもつものは結構あるんだよ。

例えばマヨネーズは、油とお酢で出来ているけど、ドレッシングのように分離しないのは、卵が界面活性剤の働きをしているからなんだよ。その他にもチョコレートやアイスクリームも界面活性剤なしには存在しないし…。

 その他にも様々な分野の産業で役立ち、欠かせない存在なんだよ。もはや界面活性剤なしでは、私たちの生活は成り立たないともいえるよ。
悪者扱いされて何だか可哀想だけど…。」

「難しいね。お父さん。僕たちの生活に必要なんだけど、使った後が環境汚染になるのか…。」

「どうする?ヒデちゃん?来週の日曜日、晴れたら、川釣りに行ってみるか?お父さんもちょうど空いているし。」

「本当!わー、嬉しいなあ。沢山釣れるかなあ。」

「そりゃあ、腕次第だなあ。」

田貫湖からの富士山。ここはきれいな水だ。釣れなくても景色だけでも十分。


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141,食べて大丈夫?


「ヒデちゃん、これ何の話か分かる?」

「えっ?どんな話?お父さん?」

「うん、今から500年位前の話なんだけどね。1520年にアメルカのニュージャージーの農場主でもあったロバート・ジョンソンさんが、自分で育てた植物の実が、実は食べられることを証明するために、町の広場に人々を集めて、自分で食べて見せようとしたんだ。」

「そうなんだ。それで人々はどんな反応を示したの?」

「うん、みんなその実は、毒だと信じ切っていたからね。『止めさせて!あの人死んじゃうわよ』、『あいつは気違いだ』、『見ろよ、あの血のように毒々しい色の実を』…

 ジョンソンさんは、これから食べるその実を皆に見えるように高く掲げ、そして、おもむろに口まで持っていき、ガブリ。」

会場がシーンとなったんだ。

この様子を見ていた人の中には、ギャーッと叫んだり、目を閉じたり、気絶してしまう人さえ出るほどだったんだよ。

二口、三口…全部食べ終わっって、『どうですか?私は大丈夫ですよ。これは食べられるんですよ!』と両腕を広げてそうアピールするジョンソンさんに、大きな拍手が贈られたんだよ。

毒がないことを示されて以降、食用として認知されるようになったとか。」

「お父さん、なんとなく分かったよ。それトマトの話でしょ?」

「そうだ。その通り!良く分かったね。トマトの話なんだよ。後には、ジョンソンさんの勇気ある行動を称え、ジョンソン・デーというお祭りも開催されていたんだって。

今では信じられないような話だけどが、当時の人々にトマトはかなり恐れられていたようだね。」

「イタリヤ料理とかでよくトマトを使っているけど、もともとはどこの物なの?」

「お父さんが調べたものでは、トマトはペルーのアンデス高原付近が原産で、元々はミニトマトのような小さな実が鈴生りになるチェリータイプで、そのトマトを人や鳥類が食べながら種を拡散させ、次第にメキシコに伝わっていったとするのが有力な説らしいよ。」

 「ヨーロッパに伝わったのは、新大陸発見の頃で、実際にコロンブスが持ち帰ったのかどうかは分からないけど、この大航海時代に、じゃが芋、トウモロコシ、唐辛子などと共に運ばれたらしいよ。

 でも、その後ヨーロッパでも、猛毒を持つベラドンナという植物の実に似ていたため、毒を持つ植物と信じられ食用にされなかったんだって。

ベラドンナ

 そのトマトを最初に食べたのは、飢餓に苦しむ南イタリアの青年が、空腹に耐えかね、観賞用のトマトを食べてみたところ、死なないばかりか美味しいことを発見したんだ!

 それから、トマトは、地中海沿岸の南ヨーロッパを中心に、食用に広まっていき、マルタの主要農産物の一つになっていったわけなんだって。」

「それって、アメリカのジョンソンさんが食べる前の話だよね。お父さん」

「そうなんだよ。意外なことに、南米原産のトマトが北米で食べられるようになったのは、ヨーロッパよりも更に200年以上遅れたそうだよ。」

「面白いね。」

「日本にトマトが入ってきたのは17世紀で、やはり当初は専ら観賞用に使われ、食用の歴史は、江戸の終わりか明治に入ってからだったそうだよ。」

「そうなんだ。でお父さん、トマトって野菜?果物?

「アメリカの当時の税法では、果物は無税だったものの、野菜には関税がかかっていたので、

「トマトは果物か野菜か」の論争が巻き起こり、結局、裁判で悩みに悩んだ挙句に「トマトは野菜」という判決が下されたそうだよ。

今もそれを引き継いでいるみたいだよ。」

「そうなんだ。トマトは野菜ということにしちゃったんだね。お父さん、トマトの話のように食べられないと思っている物も、実は食べてみると美味しい物が他にも結構ありそうだね。」

アケビって、ヒデちゃん知ってる?」

「うん、あの種ばっかりの甘いやつね。」

「あの皮は山形の方では茄子と同じように扱って味噌汁に入れたり、てんぷらにして食べるんだって。そう山形の友達が言っていたよ。」

「へえ、僕、初耳だよ。お父さん。今度食べてみたいなあ。」

「それにはお母さんの協力が必要だな。」

「機嫌の良い時に話してみようかな?」

「うん、そうだね。」

これがアケビです。懐かしい甘い味がします。
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140, 心の傷


大事な人に伝えたい心のメッセージ

 戦後の貧しい新制中学の卒業式は、昭和二十五年(1950年)の三月だった。

自暴自棄のすさぶ心のままに窓を壊し、壁に穴を開け、おまけにピアノの鍵盤をはがし、鋼線をゆるめた。

勉強なんかクソくらえだ。

最後の卒業記念に窓ガラスをぶっ壊してやるかと歩いていたら、先生に呼び止められた。

「おい、なにしとる。ちょっと来い」職員室のわきの小部屋に入った。

「やっと皆の進学先と就職先が決まって、ほっとしているんだが、どうもおまえのことが気にかかってならんのだ」先生は静かにしみじみと話す。

私は「大阪に行ったらなんとかなる」と言ったもののあてはない。命さえ頑張って生きていれば…なんとかなる。

この先生には何度もビンタをくらった。時には涙を流しながら「何度言ったらわかるんや」と。
 家も貧しく、勉強したところでなんの役に立つのか。先生の説教など聞く耳ももたなかった。

 卒業から二カ月ほどぶらぶらしていたが、小さな暗い町工場に就職した。

反社会的団体に入るかどうか心は揺れたが、故郷の先生の言葉が「真っ当に生きるように」と響いてくる。

 漢字は分からぬ、計算は苦手、英語はちんぷんかんぷん…。

 二年、三年と過ぎると、新人が入ってきて、質問してくるようになった。

アホだからわからんとは言えなかった。
辞書を持ちきりで、夜中まで一生懸命だった。勉強しなかったツケはつらく厳しかったが、少しずつ学びの要領を得て、恥をかかなくなった。

 十年、二十年過ぎると、特殊な技術も身につき、つらいことへも責任や愛着が生まれて、自信につながっていった。

「それでも心の片隅にこびりついていたものがあります。

中学で壊したピアノのことです。この機会に償いをさせてもらいたくて、この新しいピアノを贈らせていただきました。

これで心が少し軽くなりました。

学校を卒業するまでは先生のありがたさ、学校の大切さなど気づきませんでした。社会に出て苦労するうちに、やっとわかってきました」

 五十年以上も差のある後輩の中学生に、私は苦難の半生をかみしめながら、二十分ほど話した。

「もし生まれ変われたら、私は学校の先生になりたい」という結びに、教師たちの目が潤んだ。

「子どもは見捨てさえしなければ必ず実る。待つことも教育だ」
 そんなことを言っていたあの先生はもういない。

小山時雄さん(兵庫県日高町教育長この記事時69歳)月刊「moku」より

※私はこの文章を初めて読んだ時、涙とともに、こんなにも心に届くものあることにハッとさせられました。内容、そして文章力、…。以来この文章は私の宝物になっています。

オオゾウムシに食べられた栗の木の輪切り。体の傷は治せるけれど心の傷は癒すのが大変。

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139,ほぼ69cm


 この頃ようやく、焼き海苔や白紙をハサミでちょうど半分に切れるようになりました。世の中の職人さんたちも名人達人になると寸分たがわず物を切ったり加工したりして、「人って、鍛えればすごいことができるんだなあ」と思うことがよくある。

 今回のキーワード「ほぼ69cm」は江戸時代に地図を作った伊能忠敬さんに関することです。

 

 商売で成功 隠居してから江戸に出て勉強。天文学、暦学、そして地図づくり…。商売のうまさ、人柄の良さ、人組のうまさ、向学心等、参考になる点多々あり、調べれば調べるほど魅力的な偉人です。
 1800年代始めの頃、伊能忠敬は、下総の佐原(現千葉県香取市)で、事業家として成功しました。(今のお金で50億円とも70億円とも…)
 その後49歳で隠居し、50歳のときまさに「五十の手習い」を地で行くかの如く江戸に出て、天文・暦学を学び始めました。
 その修業中にきっかけをつかんで地図作りを始め、17年という年月をかけて日本全土を実地測量し、初めての実測による日本全図の作成という快挙を成し遂げたのです。
 隠居後、年齢に関係なく、向学心に燃え、大仕事を達成したことが、私たちに元気を与えてくれています。
 中でも感動させられるのは、色々な測量器具を使いながらも、基本は、「一歩を正確に69cmで歩く」訓練をし、自身の体を計測器にしたことです。
 目印と目印の間を歩き、歩数から計算して距離を測る。距離を測った後は今来た方角を調べる。この作業を延々と繰り返しました。山や川や海もある難しい地形も工夫し、丁寧で粘り強い測量をし「大日本沿海輿地全図」を完成させるという偉業を成し遂げたのです。

 参 考:NHK for school 、InopPedia tokyo 他

  その他:香取市に伊能忠敬記念館があります。当時の測量器具や貴重な資料が沢山展示されています。

 近くには小野川があり、昔ながらの町並みを堪能できます。

また、佐原の祭りの山車記念館や伝統ある香取神宮、万葉集の防人の歌にも出てくる「鹿島立ち」の鹿島神社水生植物園などもちょっと足を延ばせば見学できます。

お勧めは、春と秋の佐原の大祭ですね。軽快な佐原囃子と大きな山車の人形が楽しめます。 

一歩69cmは神業です。ましてや隠居してから偉業を成し遂げるとは。

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138,あの時は…

 結婚したての頃、妻の田舎から沢庵と卵をもらってきました。
今のようにレジ袋がなかったので、新聞紙に輪ゴムで軽く包み、紙袋に入れ電車の棚置き場に立てて乗せて置いたら、
真下に座ったおじさんが「臭えー。」「くせー」としきりに呟くのです。
ボックス式の対面座席なのでおじさんの困った表情が良く分かりました。「申し訳ないなあ」と思いながらも何も言えず、私たちはもうすぐ降りるので我慢してもらっていました。
 すると、電車がカーブで揺れて、その沢庵と卵が紙袋から出て落ちてしまいました。
 なんと「臭い」と言っていたおじさんの頭に、しかも卵は2、3個割れて、おじさんの顔に滴り落ちていました。
「すみません」と言ってタオルを渡しましたが、おじさんは受け取らず、プンプンしながら自分のタオルで拭いていました。
 私たちが降りるまでおじさんの機嫌は治りませんでした。
 私と妻は「すみません」と言いつつ笑いをこらえるのが大変で窓の外をじっと見つめていました。

反省:臭う物はしっかり包まなきゃ。田舎の電車?ジーゼル車?は、結構揺れます。自分がこのおじさんの立場だったらどうしたか?…思い出す度に「おじさん、あの時はごめんなさい。」と言っています。
この犬の名はシロです。尾も白い犬です。
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137,リラックスタイム


1,どっちが生まれたら良い?

 ある妊婦が産婦人科を訪れた時、隣の若夫婦が小声で話をしていました。

「ねえ、あなた、男の子と女の子とどっちが生まれた方が良い?」

夫が答えました。

「もし女の子だったら、君と生まれた女の子をずっと大事にするよ。」

「もし男の子だったら?」

夫はすかさず答えました。

「僕と生まれた男の子二人で君を大事にするよ。」

「嬉しいわ。ありがとう。」

 それを聞いていたt近くの妊婦は、とても感動しました。トイレから戻った夫に、同じような答えを期待して低い声で聞きました。

「あなた、生まれてくる子供は男の子と女の子とどっちが良い?」

夫はしばらく考えて、こう答えました。

「もし女の子だったら、君と二人で、きっと僕をバカにしていじめていくんだろうな。

もし、男の子だったら、僕とその子は、二人とも君にずっとバカにされながら、冷たく支配されていくんだろうな。」

2,じらさないでー

 警察が事件の容疑者を捕まえて取り調べているが、一向に白状しない。

連日続けて同じように問いただしたら、容疑者は、我慢できなくなり冷や汗を流しながら言った。

「話すよ、全部話すから、たばこを一本くれないか?」

警察官は、にやりとしながら「一本だけでいいのかい?」

「ああ」

一本たばこを渡して言った。

「全部話終わったら、火をやるよ。」

「…じらさないで」(海外の笑い話です)


3,ちょっと顔緩む

・志願書の趣味の欄に「植木等」と書いた。

・僕の姓は「浅利」ですが、時々「シジミさん」とか「ハマグリさん」と呼ばれる。

・「消毒液買ってきて!」と頼んだのにショートケーキを買ってきた夫。

・「どちら様ですか?」と言うところを「何様ですか?」と言ってしまった。

・「口紅を拭いてください。」 と歯医者さんが言ったら、口笛を吹き出した患者さん。

・大学生が、課題の提出期限を忘れたので、すれ違った先生に聞いた。「先生、今日中ですか?」「いや、私はまだ准教授だ。」

・「課長、私、結婚したので、姓を変えます。」「何?性を変える?、で、いつから男になるの?」

・散髪した上司に「課長、頭いかれたんですか?」

・法事の時、子どもがうるさかったので「うるさいぞ!クソ坊主」と言ったら、お経が急に止まった。皆笑いをこらえていた。「クソがき」と言えばよかったのか。

・やたら清潔好きな上司に付いたあだ名は「聖徳太子(消毒大事)」

・百円ショップで「これいくらですか?」と聞くおじいさん。店員さんも話を合わせて「特別おまけで、百円!」

僕も良くアサリの舌と間違えられるんですよ。ただの黄色い小石なんですけどね。

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136,父親像


 小学校四年の時、三歳の弟が百日咳にかかった。

雪深い山村で、医者に行くにも片道で五時間。

医者に行かせてくれと頼むおふくろに、祖父は「寝てりゃ治る」と言った。

医者はぜいたくだった。大工のおやじは請負先で寝泊まりして留守がちだった。

病状は悪くなる一方で、ある夜、もがり笛のような呼吸を繰り返した。顔をゆがめ、目をカーッと見開く断末魔の苦しみを見て私は泣いた。

泣き疲れて眠り込んでしまった。

夜明け前、おふくろの子守歌が聞こえてきた。

素肌に弟を抱き寄せ、「ごめんしてくれよ。オレに力がないばっかりに…」。

そばに寄ると、涙も見せずに私に末期の水を取らせた。

「よく見ておけ。人の命とはこういうものだ」。

祖父を、家にいなかったおやじを恨んだ。

昼ごろ、おやじは小雪の中を帰ってきた。

黙ったまま、白い布をはいだ。涙が見えた。立ち上がると、裏庭に行き、ガンガンやり始めた。弟のひつぎを作る姿が見えた。

痛々しかった。が、恨みは残った。

「おやじなんて…」。存在そのものを気持ちの中から消そうともした。

もともと存在感が薄かった。子供の頭の一つもなでるわけじゃない。人生訓をのたまうタイプでもない。大工仕事を誠実にこなしても、家庭には無頓着だった。

建前の祝儀で酔って帰り、稼いだ金はそのまま祖父に渡していた。祖父の言うままだった。

おやじから教えられたことはない。生活の知恵も、科学する心も、疑うことも、信じることも、すべておふくろから教わった。

 高校の願書が締め切られる前「もう三年勉強させてやって欲しい」と言う担任に、「オレが死にものぐるいでがんばるから」と言ってくれたのもおふくろだった。

 すでに、浅草のブラシ工場に就職が内定していた。おやじのような男にはなりたくない。そう思い続けてきた。

 そんなおやじにも、若い日のロマンはあった。十七か十八で浪曲師を夢見て、ゆかた一つで家出し、人気浪曲師の門をたたいた。ずーずー弁でうなったんでしょう。すぐに連れ戻されてしまった。

 私も、高校を出て十二年勤めた銀行を辞めた。子供の頃の夢が忘れられず、当時は浮き草暮らしの漫画家の道を選んだ。

その時、初めておやじに親しみを覚えた。やはり血を継いでいるのか。

 おやじは結局、時代とその貧しさから抜け出せなかったのだ。恨む気持ちは、もうないが、

おやじって何だ?と聞かれたら、たぶんこう答える。

死にものぐるいで家族を守る、そういう存在こそがおやじなんだ、と。

      矢口高雄
   1993年3月29日朝日新聞より

この記事当時は53歳でした。

 2020年11月20日に81歳でなくなられた「釣りキチ三平」などの作品で有名な漫画家矢口高雄さんの「父親への思い」です。28年ほど前、新聞で見つけ、共感することが多く、涙しながら読んで、切り抜いておいたものです。

大きなハマチが釣れたと近所の釣り好きからいただきました。
父親は富士の山のように在りたいが…
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135,これは何?


 

 中学の時の国語の教科書に載っていた金田一京助さんの逸話がずっと心に残っています。知恵を教わったようで子どもながらに「賢い人だなあ!」と感心しました。

 私の記憶では、アイヌ語を研究するために樺太(サハリン)に渡った金田一さんは、全くアイヌ語を知らない状態から始めました。

 アイヌの子ども達の前で、地面に棒でグルグルなんだかわからない絵を描いて、「なに?」という言葉を先ず聞き取り、その言葉を使って木を指したり、頭を指したりして、次々に単語を覚えていったという話です。

金田一京助さん

 今、詳しく調べてみると金田一京助さんの「心の小道」という本にそのことが載っていました。
(描いた絵は、地面にではなく紙にでした。)

 た だ ,私 は ,「 な に ? 」と い う 一 語 が 欲し く な っ た 。そ れ さ え わ か れ ば ,心 の ま ま に ,物を指して,その名を聞くことができるのである。
 そこで,ふと思いついて,もう一枚紙をめくって,今度はめちゃくちゃな線をぐるぐる,ぐるぐる引きまわした。
 年かさの子が首 を か し げ た 。そ し て ,「 ヘ マ タ ! 」と 叫 ん だ 。す る と ,他 の 子 供 も み な 変 な 顔 を し て ,口 々に ,「 ヘ マ タ ? 」「 ヘ マ タ ? 」「 ヘ マ タ ? 」
う ん ,北 海 道 で「 な に 」と い う こ と を ,「 ヘ マ ン ダ 」と 言 う 。
こ れ だ ,と 思 っ た ら ,ま ず試みようと,身のまわりを見まわして,足もとの小石を拾って,私か ら あべこべに「ヘマタ?」と叫んでやった。驚くべし,群がる子供らが私の手もとへくるくるした目を向けて , 口 々 に 「 ス マ ! 」「 ス マ ! 」 と 叫 ぶ で は な い か 。
北海道で石のことを「シュマ」という 。 し て み る と ,「 ス マ 」 は 石 の こ と で , そ う し て ,「 ヘ マ タ 」 は 、や っ ぱ り 「 な に ? 」 と いうことに違いなさそうだ。そ こ で 勇 気 を 得 て ,も う 一 つ 足 も と の 草 を む し り 取 っ て ,「 ヘ マ タ ? 」と 高 く さ さ げ る と ,子 供 ら は 「 ム ン ! 」「 ム ン ! 」「 ム ン ! 」 と , ぴ ょ ん ぴ ょ ん と と び な が ら 答 え る 。
 私 は う れしさに,子供らといっしょにぴょんぴょんとんで笑った。おかしかったのは,私が自分の五厘ぐらいしかない7,8本のあごひげをつまんで見せて ,「 ヘ マ タ ? 」と 尋 ね た と き で あ る 。声 に 応 じ て ,子 供 ら は「 ノ ホ キ リ ! 」「 ノ ホ キ リ ! 」と 答 え て く れ た の で ,「 あ ご ひ げ 」と 記 入 し た 。
な ん ぞ 知 ら ん ,そ れ は 下 あ ご だ っ た 。ひ げづらになれているアイヌの子供たちの目には, 私 の つ ま ん だ ひ げ な ど は ,ひ げ の 数 に は 入らないので,私の指はあごをつまんでいると思ったのである。
 私はこうして,たちまちのうちに74個の単語を採集して,元気づいた。おりから,河原に集まって鱒を捕えている大勢の大人たちの所へお り て 行 っ て ,覚 え た ばかりのほやほや の 単 語 を 使 っ て み せ た 。
河 原 の 石 を 指 さ し て は ,「 ス マ 」と 叫 び ,青 草 を 指 さ し て は ,「 ムン 」, 鱒 を 見 て は ,「 ヘ モ イ 」, 鱒 の 頭 を 指 さ し て は ,「 ヘ モ イ ー サ パ 」, 鱒 の 目 を 指 さ し ては ,「 ヘ モ イ ー シ シ 」, 鱒 の 口 を 指 さ し て は ,「 ヘ モ イ ー チ ャ ラ ! 」
 これまで,むずかしい顔ばかりしていたひげづらが,もじゃもじゃのひげの間から白い歯を現した。これまで,そむけそむけしていた婦女子の顔にも,まっさおな入れ墨の中から白い歯が見えた。明らかにみな笑ったのである。
中には,むこうから,網を持っている手 を 振 っ て 見 せ て「 ヤ ー( 網 )」と 言 っ た り ,砂 地 を 指 さ し て「 オ タ( 砂 )」と 言 っ た り した者もある。急いで手帳に書きつけながら,その発音をまねすると,不思議そうに手帳を見に寄ってくる者もあった。
婦女子 の 群 れ で は ,「 い つ 覚 え た ろ う 。」 と か ,「 よ く 覚 え たも の だ 。」 と か 言 う ら し い 感 嘆 の 声 を あ げ た 者 も あ っ た 。

 金田一京助さんは「なに?」から始めてアイヌ語の辞書まで作成。今でも「生きていく知恵」を教わったような感動があります。

what?(英語) 什么?シェンマ(中国語)応用がどんどん利きます。

また、一歩進めて、分からないことや困ったことなど有ったら、このことから、「5W1H」も分かっている人に積極的に聞くことの大切さも学びました。


※5W1Hとは、「When:いつ」「Where:どこで」「Who:だれが」「What:何を」「Why:なぜ」「How:どのように」からなる情報伝達のために必要な要素を示した言葉です。

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