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月: 2022年5月
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251,子どもの発想
近所の子供たちが遊んでいる。聞くとは無しに耳に入ってきたことで、思わず「ふふふ…」としてしまうことがある。子供の発想は自由でいい。
●「クイズ出すよ。」
「うん良いよ。」
「食べられないパンは?」…
「分かった。フライパン!」
「違うよ。カビの生えたパンだよ。」
「ずるいよ、そんなの。」
●中国から来た友達から
「『ダメ、やっちゃいけない』は、中国語で『不行(ブーシン)』というんだよ」と教わった子は、やたら『プーチン』と言って、友達を注意していた。
●「イギリスのジョンソン前首相の髪型って面白いよね。いつも寝起きのようで、何という髪型なんだろうね?」
「あれが流行ったら楽で良いよなあ。」
●「この前ねえ、若い女の先生に『先生、鼻くそ付いてますよ。』って教えてあげたら、真っ赤になってトイレに行っちゃった。
僕なんかいつも舐めているから平気なのに。ちょっとショッパイよね。」
「うん、私のは、ちょっと甘いよ。」
●「お母さんがね、買って来た魚を養殖物と言っていたけど、魚より人間の方がもっと養殖ものだよね。」
「うん、天然育ちの人間なんてないものね。」
すると他の子が「えっ?魚料理って和食じゃないの?」
「洋食だってあるんだよ。」…
何か、話の食い違う子ども達でした。
●白い半紙に墨で「ぷーさん」って書いたら、風で裏返って「ぷーちん」になっちゃった。
●夜遅く、笛の練習をしている子がいた。母親が「近所迷惑でしょ?うるさいから止めなさい!」
「分かった。」
…暫くしても止めないので、見に行ったら「お母さん、僕耳栓しているから大丈夫だよ。」
「まあ、この子は…」
●「お母さん、見て!」
「はい、はい…えっあなたどうしたの?その顔は?」
「先生が緑色の植物は、食事をしなくても太陽の光に当たると栄養を作るって言っていたから、本当かどうか試そうと思って、緑の絵の具で顔を塗ったんだよ。」
「まあ…今日の昼は抜きね。ずっと外で太陽に当たっていなさい。」
●親子で川辺を散歩していたら、子どもが
「お父さん、あの看板見て!フフフ、ハハハ」
「何がおかしいんだ。…『ウコン売ります』だろう?」
「エッ?『ウコン』か、僕は『ウ〇コ』かと思ったよ。」
「そう言うのを早とちりって言うんだよ。」
「でも、『ウコン』って何?そんなのあるの?」…。
元素記号の勉強
「鈴木、亜鉛は?」「Znです。」
「木村,銅?」「Cu。」
「田中、鉄?」「ええっと…Fe。」…
「金?玉田」…「先生、止めてください。」
「えっ?何が?」
周りは、大きな笑いが…気が付かないのは先生ばかり…
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250,恩師とラジオ
田舎の小さな村で育った私は、中学を卒業したら、親の後を継いで大工になろうと思っていた。勉強そっちのけで、毎日いい加減な生活を送っていた。
周りのみんなは、高校に行くとか言っていたが、自分には関係ないと思っていた。
ところが、中二の時、担任が、東京から来た若い女の先生になった。
最初は 、バカにして、話は聞かず私語ばかり、ノートはとらず、ひどい時は、カエルや蛇を教室に持ち込み授業妨害さえしていた。
ある日、その先生が昼休みに、私を呼び止めて、放送室に連れて行った。何か分からないけれど、叱られると思った。
「どうしてバカなことばっかりやっているの?将来は、どうするの?
これからは、頭を使う時代だよ。高校に行けるよう頑張りなさい。あなたは良いもの持っているんだから…」思いっきり頭を殴られたように思った。
先生は、私をよく見ていてくれたんだ。
そして、行くべき道まで示してくれた。
その後、自分の中に変化が起きた。
その先生の授業は、真剣に聴くようになった。英語と歴史を教えてくれた。当然その教科も好きになった。
学年末の予餞会では、クラス代表で劇の役にも推薦してくれた。
だが、その先生も1年間で都会の学校に異動して行った。
「ええっ?なんで?」
支えを失ったようで寂しかったし、悲しかった。
布団の中で一人で泣いた。
1年後、何とか地域では、名門と呼ばれる高校に入れた。
高校に入っても、大学なんて行く気もさらさらなかったので、毎日が部活三昧。
ところが周りの友達たちは、大学の話ばかり。
私も、少しずつその波に飲まれていった。高二の夏休み直前に、勉強に専念するために部活動をやめた。(部活動のおかげで体力は相当ついた)
ただ、自分一人での勉強は、いつも計画倒れと反省で前に進まなかった。
その時、すがりついたのがラジオである。たまたま聞こえた文化放送の「大学受験講座」、これで救われた。
田舎なので、電波の受信状態が悪く、ザーザーという雑音交じりでも、毎日定時に、ましてや今のように録音なんてできない時代だったが、集中して楽しく学習で来た。
夜10時から始まって2講座で11時位までの時間だったと思うが、主の内容の他、大学状況や流行っている歌など余談も面白かった。
スポンサーの旺文社さんも力が入っていた。「豆単」など見ても分かるが、会社自体が受験生を何とかしてやりたいと思っていたのがよくわかった。
片田舎で情報が少ない自分にとっては、この放送がなかったら大学どころではなかった。成績も伸びず腐っていただろうと思う。大学に行きたいと思う私の心に火をつけてくれた番組である。
そして、行きたい大学も少しずつ考えるようになってきた。国立で東京の工業系の大学に行きたかった。
が、家庭の事情で家から通える大学、しかも受験は1回のみ。やる気がどんどん失せて成績も下降気味。気持ちが攻めから守りになっていった。
「どこでもいいや、とりあえず入れれば…」
結局、進んだのは、国立の教育学部…。教師になるつもりもなかったので、4年間は、部活動とアルバイトと遊び(麻雀)…
(自由で何者にも縛られない経験が後ですごく役立った)
卒業時、民間会社を受けても、自身の気持ちがしっくりいかず…。
結局は、翌年、教師の道を選び…教育センター、中学校、小学校、教育委員会、大学、高校の評議員等々…今に至っている。
いつもいい加減で、後で大事なことに気付く。
そんな人間ですが、今まで出会った人々、特に中二の時の担任、ラジオの文化放送「大学受験講座」、大学時代の友人たち、職場の先輩・同僚には、本当に感謝しています。
教師の道を選んで、たくさんの生徒や保護者、恩人に出会えたこと、今は、自信を持って良かったと言えます。「人間万事塞翁が馬」ですね。
現場建築は、できなかったが、少しは、人間建築らしきことができたかなあ。
「励めども、いまだ恩師に追いつけず」
子どもの頃は、よく着物を着ていたと記憶しているが、今では、旅館に泊まった時の浴衣ぐらいしか着物を着ることは無くなった。
結婚したての正月、妻と二人で着物を着て初詣に出かけた。もちろん履物は下駄である。
駅からその神社までは2㎞位あっただろうか?
家を出たころはまだよかったが、バスに乗る時に足が開けない。駅の階段が思うように登れない。神社まで歩くのが、これまた大変。
足が開けないのは、本当につらい。
足を肩の幅しかない紐で縛っているようなものだ。
いっそのこと、着物の裾をまくり上げて歩きたかった。
あれからは、二度と着物姿で外に出ることは無くなった。
下駄もずっと下駄箱の中で、じっと出番を待っているのだが…。
改めて女性の歩き方、また、時代劇や歌舞伎役者の歩き方を見直してみた。
ズボンで、足が自由に開く今の「西洋歩き」のように、足を先に大きく出すのではなく、左右の腰を順に前に出す。足はその後だ。手も身体と一緒に出す。
いわゆる「難波歩き」。なるほどなあ、だから姿勢が崩れずに歩けるのか。
決して速く走れるわけではないが、日常生活の中では、これで十分である。
常に不動の姿勢で腰と体が前に出て行く、武道に取り入れられているのにも納得。
歩き方、身のこなしにも綺麗とか汚いがあるんだなあ。
着物を着ている感覚で歩くことを少し意識してみようかな。
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248,ジャンケン島
昔々、遠い遠い海の向こうに「ジャンケン島」という島があった。
島の民は、争うことが大嫌いで、難しい決めごとや揉め事になりそうなときは、長老の前でジャンケンで決める。
みんな気心も知れていて、人を騙そうとするずるい人もいないから、人の道を外さなければ良しとしている。
長い間、こうして島は平和に営まれていた。
ところが、ある時、島に見知らぬ色白の人間が流されてきた。
島民の必死の手当で一命を取り留めた。
この男は、日を追うごとに自分の国のことを少しずつ話し始めた。
男が住んでいた国は、
人も多く、この島のように物々交換ではなく、お金というものがあって、それが仲立ちをしていること、たくさんお金を持っていると、好きなものが手に入り、人をも使い、好き放題わがままな生活ができること。
だから人々は、お金を欲しがり、時には人を騙したりもしていた。
この男の話を島の若者たちは、よく聞いていた。
やがて、若者たちは、この男の国を目指して行くようになった。
あれからどれくらい経ったのだろうか?
この島も結局はお金に使われてしまう世の中になってしまった。
もう昔の「ジャンケン島」戻ってこない。
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