武道を長年習っている友達が呟いていた。
「武道って素晴らしい所がたくさん有るんだけど、嫌な所もあるんだよ。」
「へえ、そうなんだ。」
「元々武道の武は、『二つの戈(ホコ)を止める』、争いごとを治めるって意味なんだよ。」
「そういう意味なんだ。」
「だから、上手くはなりたいけど、強さを競って、どっちが上だとか下だとかってあんまり興味がないんだよ。」
「でも、大会とかで優勝したいんじゃないの?」
「ああ、確かに、やるからには優勝したいよね。だけど、勝ち負けより、負けない自分作り?或いは武道の精神を日常の生活に生かすこと、礼節、人との和、本質を見抜く力…人間力というか…強さだけを求めて行ったら、自分の老いには勝てないし…他人のやり方も理解しにくいんだよ。」
「確かにそうだな。」
「それと、嫌なのが、自身の武道以外に他武道を受け入れない人が多いんだな。
中には同じ武道の流派なのに、他の道場とうまくやれない。教え合いができない。
もっと狭い所では、一緒に練習している仲間とでさえ軋轢が生じる。
やればやるほど自分一人の個人技になって行くような気がして…。
『剣豪は天下をとれない』って言われるのも良く分かるんだよ。」
「なるほどね。」
「それぞれの武道には、それぞれの良さがあるからなあ。
素手で板や瓦を割ったり…あれはトンカチで良いじゃないか?と思うこともあるけど内面の鍛えという大事なこともあるし…。
やはり武道は人を作る手段だと思うから、その精神を日常生活、特に人間関係に役立てていきたいなあ。と思っいるんだよ。」
『半ば(なかば)は人のために、半ばは自分のために』
『全てのことは人が起こすこと』
『しっかりとした人作り』
戦後の荒廃した日本を見て、人造りの為に少林寺拳法を創設した宗道臣先生の言葉が思い出される。
またこうも言っている
『武道の優れている人がいる。凄い人だとは思うが偉い人ではない、勘違いしないこと。それを人のためにどう使うかが問題だ。』
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