月: 2023年7月
自分は、確実に安全運転していると思っていたから…。
「この野郎!てめえ。」
「ちょっと待ってください。ずっと言っているように、私は違反してないですから、この2つに乗ることはないでしょ。警察官が二人いれば、多少なりとも自分にも間違いがあったかな?とも思いますが、一人で頭ごなしにでは、警察に対する信頼も揺らいできますよ。
「お前、大丈夫だったのか?
「なんか言った?」
B:最近、体調はどう?
A:うん。何とか順調。だけど、俺の行っている病院、そこの担当の先生は、よい人だとは思うんだけどちょっと心配なんだ。
B:だって病院を替えたばっかりじゃないの?
A:そうなんだけど。先生はいつも笑顔でいるけど、病気の話や薬の話は、そんなにしてくれないんだよ。
B:へえ。
A:世間話とか、おやじギャグとかがほとんど…。先生の部屋からは常に笑い声が聞こえていて、看護婦さんたちもニコニコしていていいんだけどね…。
B:気になることがあったら、自分から聞けばいいじゃないか?
A:ああ、だから聞くようにはしているんだけど。
B:なんか以前に聞いたことがあるなあ。そういう先生って名医だって。
A:名医?どういうこと?
B:あったことないけど、そんな気がするなあ。『医は仁術』と言われているだろう?手術や薬で患部を治療することは、もちろん大事なことだけど、その人が持っている治癒力に働きかけるのも大切な治療だというんだ。共感、信頼、面白い話、笑顔…患者さんがお医者さんを信頼し、安心して任せられる状況こそ最高の治療だし薬だということ。そういうことかなあ。
A:なるほど。そうか。ちょっと、あの先生の見方が変わってきたぞ。
B:全てのお医者さんが名医だったら良いんだけどなあ。
A:確かになあ。
B:病院の評判はどうなの?
A:都会の大きな病院だから、前の病院に比べたら評判はもちろんいいさ。
B:じあ、安心していいんじゃないの。
A:ありがとう。お前も、今日は、俺にとって好い薬の役をしてくれているよ。話してよかったよ。
B:ああ、でも調子に乗り過ぎ無いようにな。俺の言ったこと間違ってるかもしれないしな。
A:そんなこと言うなよ。
333, 左手でピアノ
今から20年前、新聞にこんな記事が載っていました。参考にしていただければ幸いです。
左手だけで演奏するピアニスト舘野泉氏が衆目を集めている。フィンランドでの演奏会の最中に脳出血を起こし、リハビリに励んだが右手が使えなくなってしまった。
失意の彼は英国の作曲家ブリッジによる左手の曲に出合ってから自分の命を取り戻し、左手だけで演奏会を再開した。
たまたまテレビで演奏をしている場面に出合い、目をつぶって聴いた。素晴らしい!
目を開けると、左手だけの所作に心をとらわれてしまい、肝心の音楽が遠のいていく。
舘野氏自身も言っているが、われわれは「ピアノは両手で弾くもの」という先入観がある。しかし、左手だけの演奏には音楽のエッセンスがすべて凝縮されているので、信じられないくらい素晴らしい曲が奏でられる。
イチロー選手が安打新記録を達成した時、「大きさや強さに対するあこがれが大きすぎて、自分自身の可能性をつぶさないでほしい。自分の持っている能力を生かせれば可能性はすごく広がる」と述べているが、舘野氏の一件とピタリと重なる。
「大きさや強さへのあこがれ」は「両手を駆使して名曲を奏でる」ことと重なり、「自分の可能性をつぶす」とは「右手が動かないからできない」と思ってしまうことではないか。
教育や福祉にかかわる人々も「ピアノは両手で弾くもの」的思い込み症候群に陥って、とんでもない過ちを犯していないかと自問してほしい。
私自身「この学生のレベルから見てこのくらいまでできればいい方かな」などとしょつちゅう思うこともある。 イチロー選手的に言えば、その学生の持っている能力に目を向けず、「両手弾き意識」の枠をこしらえ、学生と私の両方の可能性をつぶしているのはほかならぬこの私自身であった。
福祉職三十年近く、教育職十五年、もしかして「可能性つぶし」に明け暮れたのではないかと、舘野氏とイチロー選手の生きざまを見て恥じ入るのみである。
舘野泉:クラシック界のレジェンド、86歳ピアニスト。 領域に捉われず、分野にこだわらず、常に新鮮な視点で演奏芸術の可能性を広げ、不動の地位を築いた。 2002年1月のことだ。 在住するフィンランド・ヘルシンキでのリサイタル中、脳溢血で倒れ、右手の自由を失ってしまう。右半身不随となるも、しなやかにその運命を受けとめ、「左手のピアニスト」として活動を再開。今も、国内外で年間50回近くのコンサートを行う現役の奏者である。
332,読み易い文章
友達がこんな話をしてくれた。
親戚のおじさんが亡くなった。75歳。
新聞記者をしていたのは知っていたけど詳しくは知らなかった。
叔父さんの書いた記事をいくつか奥さんが出してくれた。さっと目をとしたが特別すごいとは思わなかった。
「おじさんの何がすごかったの?」女房にそっと聞いてみた。
「お父さん、あなたの目は、節穴なの?」
「えっ?もう一回見せて!」
「ああ、なんとなく分かったような気がする。」
「叔父さんは、高校卒業と同時に新聞社に入った。何年かやっているうちに、誰もがすっと読める記事ということで評判になり、大手新聞社から声がかかり、そっちに移ったんだ。いわゆるヘッドハントされたのよ。」
「そうなんだ。」
「誰もが読める平易な文章は、なかなか書けないものよ。そのことについて本当に知っていなければ書けないし…。
叔父さんが努力しながら苦労したのは、そこなんでしょうね。
読者が安心して読める記事。だからと言って、本質を外さず、難しいことは易しく、易しいことは深く。深いことは興味深く面白く、決して自分を誇示する訳でもなく…」
「そうなんだ。叔母さん、この記事ちょっと借りていい?」
「いいですよ。」
「どうするのあなた?」
「コピーさせてもらって、参考にしようと思って…」
女房が何かぼそぼそ呟いた。
「『言うは易し、行うは難し』…」…
「何だそれは?分かりやすく言ってくれよ。」
「はい、はい」
「ハイは、一回でいい。安心しろ。今から新聞記者になろうとは思っていないから…」
※友達は笑いながら話してくれたが、とても大切なことを教えてもらった気がした。
「ヒデちゃん、どうしたんだ? その腕の傷は?」
「あっ、これ?今日、昼休みに運動場に急いで駆けて行ったら、木の根っこに躓いてころじゃったの。そしたら先生が『手当てしてもらってこい』と。
血が出て、痛かったので、すぐに保健室に行って『手当』してもらったの。」
「そうか。大きなケガにならなくて良かったな。」
「うん、最初、僕、『手当』の意味が分からなくて、手で叩かれる?のかと思ってドキドキしたよ。」
「そりゃあ、そうだろうよ。意味が分かんないんじゃな。」
「そしたら、保健の先生が消毒して大きめのテープを張ってくれたんだ。」
「よかったなあ、救急車で運ばれなくて。」
「救急車は大げさだけど、何でちょっとした治療のことを『手当』って言うの?お父さん。」
「そうか、まだ知らなかったのか。
それはだなあ、人の体には、血液やリンパ液以外にも『気』が流れているんだよ。ちょっとしたケガの時など、元気な人の手から出る『気』をもらうからだろうなあ。」
「本当?」
「本当だと思うよ。普段何気なく使っている言葉の中にも『気』をつかったものが多いからなあ。
例えば、『元気を出せ』『やる気を出せ』『血気盛ん』『気を紛らす』『意気揚々』『意気消沈』『本気でやれ』『気が清々した』『気が滅入る』『気が小さい』『気がはやる』『気のない返事』『気を失う』『気が狂う』『気を確かに持つ』『嫌な気がする』『気が合う』『その気になる』…一杯あるよ。」…
「僕も調べてみようかな?」…
●手当の本当の意味とは
現在は、怪我や病気をした時によく使う手当という言葉『手当』は、「治療」と同じ意味で使われていますよね。手当とは本来は読んで字のごとく相手に手を当てる、触れることで傷や心を癒やすことなのだそうです。
●手当の語源とは
手当の語源は、もともとは怪我や病気をした時に手のひらを当てて治療をしたことから『手当』と呼ぶという説があります。昔は治療の一貫として、痛い部分に手を当てて治療していました。
●本当の手当の効果とは
手当というのは、本当に手を当てると治癒力が高まるそうです。いわゆるハンドヒーリングです。ハンドヒーリングは、自分で普通にできるというか、無意識にやっているんです。「あっ痛い」と思ったらついつい手で抑えてしまいますよね。
昔、カイロプラクティックの先生が教えてくれました。身体の悪い部分に手を当てると身体の動きの悪い箇所がだいぶ柔軟になるんです。
悪いところをかばって、カラダが硬くなっている状態を緩和する事ができるみたいです。
●手当の効果の理由
手を当てることで、実際に効果が出る理由は次の理由だそうです。
身体の悪い部分に手を当てると、ヒトの手のひらは、適度に湿気と熱を持っています。
その湿気や熱が軽い温湿薬のような効果があると言われています。
その効果が血行を良くして患部を治癒することがあるようです。
また、手のひらからは、静電気がでているので、その静電気が経路(いわゆるツボ)を刺激して血の巡りを良くすることで自然治癒力の働きを高める。
痛みが、実際減ることがあるのは、逆に適度に血流を圧迫してあげると痛みが軽減します。
人の身体(カラダ)ってふしぎですね。よく薬でカラダが治癒するわけでなく、あくまでも薬自体は、人間がもともと持っている自然治癒力を補助するだけという。人は、自分で傷を癒やす力を持っているってこと。
それを科学の発展していない過去に人は感覚的に分かっていた。
カラダもすごいですが、それを体験的にわかっていた過去の人達もすごい。
子供の頃に熱が出て、お母さんから触れてもらうと何だか楽になるのは、やさしさや愛情だけではなく、手当のおかげで本当に癒されるいるということなのかもしれませんね。
●国語辞書では、『けが・病気への基本的な対処。消毒・湿布など。処置。』の他にもこんな意味も載っています。
①基本給のほかに出す給与。「期末手当・通勤手当」
②労働・ほねおりに対する礼金。「月々のお手当」
③用意。準備。「資金の手当をする」
「今月の手当てだ」と言って社長が社員の肩に手を置いているだけだったら、社員は「ふざけんじゃねえ」と怒るはずです。
やはり「手当て」は「手を当てる」ことだけだとは、考えないほうがよいのでしょう。
※元気な人と握手をすると元気がもらえる。それも一理ありそうな気がしますね。
「そうなんだって、お父さん。」
「そうか。まだよく分からない部分もあるけど、まっ、そういうことなんだな。」
「えっ?どういうこと?」
「お父さん、この字はなんて読むの?『八百長』」
「うん、どれどれ?…うん?ハッピャクナガ? ハッピャクチョウ? ヤオナガ? ヤオチョウ?…お母さん、この字は何と読むんだっけかな?」
「えっ?ヤオチョウでしょう?」
「あっ、そうそう、ヤオチョウだよね。ヒデちゃん、これは、ヤオチョウって読むんだよ。八百は、八百屋(ヤオヤ)と同じ読みだからヤオ、それに長いが付くからヤオチョウだよ。お父さん、ちょっと度忘れしていたよ。」
「度忘れじゃないでしょ。元々読めなかったんじゃないの?」
「度忘れだよ。」
「分かった、じゃあ八百長ってどういう意味なの?」
「そりゃあ、相撲とかの勝負事で、どっちが勝つかあらかじめ相談して、何もなかったかのように勝負することだと思うよ。なあ、お母さん。そうだよな。」
「そうですよ。」
「ほらな。」
「じゃあ、どうして八百屋と同じ字を使うの?」
「おい、お母さん、助けてくれよ。」
「ヒデちゃんもそれくらい自分で調べたら?」
「そうだ、そうだ。自分で調べた方がいいな。」
「分かった。上でパソコンで調べて見るね。」
「ああ、分かったら、お父さんにもお母さんにも教えておくれ。」
「はーい。」……
お父さん、分かったよ。面白いよ。あのね…」
その昔の碁の名人「八百屋の長兵衛(やおやのちょうべえ)」さんがいました。 八百長さんは、商売で出入りしていた相撲部屋の年寄りの碁の相手をしょっちゅうしていました。実力は八百長さんがずっと上です。が、相手の機嫌をそこねないよう、いつも1勝1敗程度に手加減していた、という話です。このことから、「前もって勝敗を打ち合わせておき、うわべだけ真剣に勝負すること」「慣れあいで、ことを運ぶこと」を「八百長」と言うようになりました。
いかさま試合 できレース インチキ試合のこと。
「なるほどなあ。自分で調べると、楽しいだろう?」
「うん、でも本当にわからないことは、教えてね。お父さん。」
「ああ、お父さんも勉強になったよ。ありがとう。お母さん、ヒデちゃんに、今夜のハンバーグは、ひとつ多めに!」「はい、はい。」
「やったー」
329,愛されよ、然らずんば、恐れられよ。
友達と久々に飲んだ。彼は、今、中学校で働いている。
「今の学校は大変だろう?」
「子ども達は純粋だから、思っているほどじゃないよ。結構楽しいことの方が多いよ。」
「そうか、俺にはできないなあ、学校の先生は。
ましてや中学生は、生意気盛りだしなあ。」
「会社で後輩指導をしているのと同じだよ。」
「だけども、子どもって、言うことを聞く子ばかりじゃないだろう?」
「うん、確かに、そういう子もいるけどね。何て言ったらいいのかなあ。…こっちの持って行き方一つだと思うよ。」
「へえ、そうなんだ。」
「初任の頃、先輩の先生から言われたことなんだけどね、『愛されよ、然らずんば、恐れられよ』この言葉がずっと頭の中にあるんだよ。」
「なんとなく分かるけど、説明して!」
「子ども達は、好きな先生の言うことは、非常に素直に聞く。また、恐い先生の言うことは聞かざるを得ない。
子どもでも大人に対してもそうだが、指導者としての方向性を教えてくれたんだ。子ども達に愛されて、信頼される先生が一番良い、でなければ毅然とした態度で恐がられるくらいが良い。ということかな。
中途半端は、いけないということだろうなあ。
「なるほど。学校だけじゃなくても、それは言えるよな。社長、上司、リーダー…愛されてる方が、何でも、効率がいいに決まっているよな。」
「息子が夜、近くの学校の体育館で武道を習っているんだけどね、その先生の指導は、普段は優しいんだけど、大会前や昇段試験前だと『何回言ったらわかるんだ!』と鬼のように厳しくなるんだって。」
「上手く両方を使い分けているんだなあ。」
「そういうことだと思うよなあ。時間がない時の対応はそうなるよなあ。」
「『愛されよ、然らずんば、恐れられよ』か。家でもちょっと意識してやってみようかな。」
「『言うは易く、行うは難し』だからなあ。
まっ、愛されるのは良いけど、恐れられるのは止めておいた方が良いぞ。」
「ああ、なんとなく反発の雰囲気が見えて来たよ。」
「もう一本行くか?」
「うん、俺は、日本人だから、日本酒が良いな。しかも二本ね。」
「何バカなこと言ってんだよ。俺は、まだビールで行くよ。」
篠笛の演奏会の記事をある新聞社が取り上げてくれました。参加者みんなが喜びました。家族も喜びました。特に一緒にドラム演奏で参加した小学校4年生は、たいそうな喜びようでした。記事インタビューにもはきはきと自信を持って応対してました。篠笛のメンバーも「この記事が掲載されるといいなあ。」そう思いながらも新聞社の都合もあるので、期待半分、諦め半分。だからこそ喜びもひとしおでした。
みんなで連絡し合い、喜びを共有しました。
記事を読んだ後、この記事を書いてくれた記者に、そして新聞社にお礼の連絡をしました。感動を伝えたく、新聞社に送ったメールをそのままここに載せてみました。嬉しかったので一気に書きあげました。
C葉日報社 様
いつもお世話になっております。
また、この度は、6月11日(日)のK市M屋館での篠笛演奏会の記事を6月22日に掲載していただき、篠笛の会員一同、また、それぞれの家族も大変喜んでおります。改めて御礼申し上げます。
記事の中で、ドラムとパーカッション演奏で取り上げていただいた小学校4年生のI崎Y馬君。Y馬君にとっては、この記事は、一生の宝物です。私たちがどんなに彼を「上手かったよ!」と誉めても一瞬の嬉しさや自信で消えてしまいます。
ですが、新聞の記事は、その何百、いや何千倍も本人を生かす効果があります。
実際にそうです。この記事を書いてくださったN瀬さんは、本当にY馬君にとって神様のような存在です。ひとつの記事が色々な人に歓びを与えてくれました。
他にも、N瀬さんが書いたくれたS中央公民館の「祈りの庭」の記事、O見川Yぶき館での太鼓「K鳴」の演奏記事など、どれも良い内容でした。そこに出てくる人々が生かされています。
新聞記事の力を改めて知らされました。
N瀬さんは、情報があるとこまめに足を運び、その誠実な人柄、一生懸命さもこの地区では評判が良いです。
だからこそこのような記事が書けるんでしょう。
これからも良い記事を掲載し続けてください。応援しています。
人を生かす温かな貴社の今後の発展をお祈りしています。感謝!
篠笛「篠●会」 T橋M年 O倉Tし子 F崎K雄
327,「修外不如修内」
太極拳の先生が、ホワイトボードにこんなことを書いてくれました。
意味
身体の外を鍛える(整える)ことは、身体の中を鍛える(整える)ことには及ばない。身体の外の筋肉を鍛え、マッチョになるより呼吸等で身体の中を整える方がずっと好い。寿命も延びる。太極拳が呼吸を大事にしているのはそこにある。
歌、カラオケ、笛などの楽器演奏も良いと言われる所以である。
身体の外の整え方は、剛性、だが身体の中の整え方は柔性である。また、身体の外の整え方は、筋肉の成長が分かりやすく、やっていて楽しい。
身体の中の整え方は、その逆で成長の変化が分かりにくい。
食べ物も、冷たいものは、美味しいが身体に好くない。夏野菜は、身体を冷やすので、その季節に育ったものを食べるのが身体には好い。ハウスものを本来食べる季節と違う時期に食べるのは、あまり好くないのではないかなあ。どうせ食べるなら、温めた方が身体には好いだろう。
不如:如かず 他の例「百聞不如一見」(百聞は一見に如かず)
「虚実分明」
意味
「実」は、メインと考え、力を抜きます。意識します。
「虚」は、サブと考え、力を入れず、意識は少しする程度。
その虚と実の違いをしっかりと分けなさい。ということ。
間違っているかもしれませんが、おおよその意味でとらえてください。インナーマッスルですね。