カテゴリー
パナシ

255,学ぶということ

「先人の言葉より」

 全く同じ話を聞いても、「いい話だった!」と感動する人と「つまらない話だった。」と思う人がいますね。

ということは、話の善し悪しは、その内容より、むしろ、聞く側の態度によって決まってくる。
聞く側に大部分の責任があるともいえる訳です。
ピューという風の音にでも悟る人がいるのですから…。

 今年も多くの方々が学校を卒業して社会に出られたことでしょうな。会社に入れば、同僚や先輩と机を並べて仕事をする。その場合、ただ単に自分に与えられた仕事のみやっていればよいと考えて毎日を過ごしていたら、あまり楽しさを感じることもできないでしょうし、ものごとを見る視野も限られてしまうと思いますね。

 僕は、会社というもの、あるいは社会というものは、人間なり、人生について教わる学校だと考えてみたらどうかと思うのです。
この学校には、いろいろな人間がいて、さまざまな人生模様が繰り広げられている。学ばなければならないことは無限にある。そう考えれば、人生を学び、人生を探究するために、何にでも進んで取り組もう、吸収していこう、そういう意欲も湧いて、日々楽しさも生まれてくるのではないでしょうか。

 発明王のエジソンは、小学校では、先生から劣等生扱いにされ、たった3ケ月で退学しています。
だから、学校では勉強らしい勉強はしていなかったのですな。
ただ、エジソンは、子供の頃から、物事に対する研究意欲は非常に盛んだった。

 つまり、自然現象や世の中のことを、ただぼんやりとながめてはいなかった。
すべてに対し「なぜ?」という疑問を発したのですね。

ときには、鳥を捕まえてきて、なぜ空を飛べるのかと、羽の構造を熱心に調べた。

 また、ある時は、止まっている蒸気機関車の下にもぐりこみ、油まみれになりながら、機械のしくみを調べていて、運転士にひどく叱られたといいます。それほど熱心だったわけですな。

そこに、多くの発見を生み出す根本があったのでしょうね。
いわゆる学問上の先生はいなかったけれど、自然の事物の中に、自分の先生を見つけ出した。

 つまりね、自ら開拓していこうという熱意に満ちて、心して物事を見、そこから学びとろうとするなら、道は無限に開かれている。
心構えしだいで、立派な師は、無数にあるということだと思うのです。

 一般に学校を出て社会に出ると、勉強する心を失ってしまう人が多いようですね。
しかし、そういう人は伸びない。
たとえ学校では目立たない存在であっても、社会に出てからコツコツと地道になすべきことをなし、学ぶべきことを学んでいる人は、後でぐっと伸びる人です。

 こういうことは、人の一生を通していえることでしょうな。
生涯、自ら新しいものを吸収し、勉強するという態度、よろこんで人びとの教えを受けていくという態度、そういうような態度を持ち続ける人には、進歩はあっても停滞はない。一歩一歩、年を経るにつれて着実に伸びていきます。
一年経てば一年の実力が養われ、二年経てば二年の実力が養われる。
さらに、十年、二十年と経てば、それぞれの年限にふさわしい力が養われる。

そういう人が本当の大器晩成というのでしょうな。       
      (「人生談義」 松下幸之助)

詳しくはここをクリック→美顔器のようなシャワーヘッド

作成者: パナシ

雑学大好き、何でもやりっぱなしが多い。

「255,学ぶということ」への1件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です