<巣立つ若者たちに贈るメッセージ>
僕は、カメラが好きで、やたら写真を撮る。旅に出かけるときには、トランクの半分がフィルムで埋まってしまうほどだ。「へたなテッポウも数うちゃあたる」と…。
というわけで、なかには自分でもびっくりするほどうまく撮れているのがある。
しかし、何といっても、いちばんむずかしいのは人物写真だ。
カメラを向けると、たいていの人が意識して構え、なかには直立不動の姿勢になってしまう人もいる。
こうなると、とてもいい写真は撮れない。人物写真のコツは、あくまで自然なポーズをとらえることだからである。
さんざん苦心したあげく、僕は、写真を撮るよりも、撮られる方がむずかしいのではないかということに気がついた。
僕も写真を撮られることがあるが、そのとき、どんな顔をしたらいいのか、とまどってしまう。
いくら注文をつけられても堅くなり、ポーズは益々ぎこちなくなる。
ところが、写真家の話によると、撮られ方のじつに上手な人がいるそうである。
そういう人だと撮影は簡単にすみ、いい作品ができるのだが、
撮られ方がまずい人だと、長い時間かけてもいい写真は絶対に撮れない、と、
そのカメラマンは述懐していた。
たしかにそうだ。僕は、大いに共鳴した。
ところで、同じことが学校や社会についてもいえるのではあるまいか。
どんなにいい先生についても、また、どれほど長く学校に通っていても、教えられ方が下手だったら成果は上がらない。
が、たとえ先生の教え方がまずくても、就学年限が短くても、教えられ方がうまかったなら、どんどん伸びていく。
とすれば、問題は「られ方」だということになる。そう、大事なのは「られ方」なのである。
「教えられ方」さえ自分で工夫し、努力すれば、その人はかならず大成する。
デカルトは学校をやめて「世間という学校」に転校し、世間から大いに学んで大哲学者になった。
彼は、教えられ方がうまかったのだ。
「教えられ方」がうまいということは、「一をきいて十にする」ということだ。
どんなに悪条件でも、そこから何かをつかみとるということだ。ハンディキャップを十二分に活用することだ。
これから「社会という学校」や「いままでとは違う学校」へ入っていく若い諸君。
君達の上司や先輩や先生はかならずしもいい人やいい先生だとはかぎらない。
けれども「教えられ方」さえ一生懸命自分で心がければ、きみたちはきっと成功する。
そのような自分を何より大切にしてほしい。
(評論家 森本哲郎さんの話より )
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