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パナシ

140, 心の傷


大事な人に伝えたい心のメッセージ

 戦後の貧しい新制中学の卒業式は、昭和二十五年(1950年)の三月だった。

自暴自棄のすさぶ心のままに窓を壊し、壁に穴を開け、おまけにピアノの鍵盤をはがし、鋼線をゆるめた。

勉強なんかクソくらえだ。

最後の卒業記念に窓ガラスをぶっ壊してやるかと歩いていたら、先生に呼び止められた。

「おい、なにしとる。ちょっと来い」職員室のわきの小部屋に入った。

「やっと皆の進学先と就職先が決まって、ほっとしているんだが、どうもおまえのことが気にかかってならんのだ」先生は静かにしみじみと話す。

私は「大阪に行ったらなんとかなる」と言ったもののあてはない。命さえ頑張って生きていれば…なんとかなる。

この先生には何度もビンタをくらった。時には涙を流しながら「何度言ったらわかるんや」と。
 家も貧しく、勉強したところでなんの役に立つのか。先生の説教など聞く耳ももたなかった。

 卒業から二カ月ほどぶらぶらしていたが、小さな暗い町工場に就職した。

反社会的団体に入るかどうか心は揺れたが、故郷の先生の言葉が「真っ当に生きるように」と響いてくる。

 漢字は分からぬ、計算は苦手、英語はちんぷんかんぷん…。

 二年、三年と過ぎると、新人が入ってきて、質問してくるようになった。

アホだからわからんとは言えなかった。
辞書を持ちきりで、夜中まで一生懸命だった。勉強しなかったツケはつらく厳しかったが、少しずつ学びの要領を得て、恥をかかなくなった。

 十年、二十年過ぎると、特殊な技術も身につき、つらいことへも責任や愛着が生まれて、自信につながっていった。

「それでも心の片隅にこびりついていたものがあります。

中学で壊したピアノのことです。この機会に償いをさせてもらいたくて、この新しいピアノを贈らせていただきました。

これで心が少し軽くなりました。

学校を卒業するまでは先生のありがたさ、学校の大切さなど気づきませんでした。社会に出て苦労するうちに、やっとわかってきました」

 五十年以上も差のある後輩の中学生に、私は苦難の半生をかみしめながら、二十分ほど話した。

「もし生まれ変われたら、私は学校の先生になりたい」という結びに、教師たちの目が潤んだ。

「子どもは見捨てさえしなければ必ず実る。待つことも教育だ」
 そんなことを言っていたあの先生はもういない。

小山時雄さん(兵庫県日高町教育長この記事時69歳)月刊「moku」より

※私はこの文章を初めて読んだ時、涙とともに、こんなにも心に届くものあることにハッとさせられました。内容、そして文章力、…。以来この文章は私の宝物になっています。

オオゾウムシに食べられた栗の木の輪切り。体の傷は治せるけれど心の傷は癒すのが大変。

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