コンテンツへスキップ
友達同士が話をしている。
A:「中学校から英語勉強しているのに、実際には、自由に話せないんだよなあ。」
B:「ああ、分かるよ。俺だって同じだよ。」
A:「文章とかだと、なんとなく理解できるんだけど、話し言葉は、なあ…」
B:「実際、外人さんに話しかけられたら、イエスかノーとサンキューしか言えないよ。」
A:「本当に…何年もやっているのになあ。」
B:「俺、今、空手を習っているだろう?それも同じだなあと、最近の思って来たね。」
A:「同じって?」
B:「実際には、なかなか使えない、ってことさ。」
A:「そうなんだ。」
B:「色々な練習は、するけれど、いざとなった時に使えるものは、少ない気がするんだよ。」
A:「じゃあなぜ色々練習するの?」
B:「大会での試合とかの表現力のバリエーションの為かな?」
A:「ふーん」
B:「誰かに指示されれば、それはできるんだけど、自分では、イエス、ノー、サンキュー程度しか使えないのと同じだよ。
だから、気持ちの面で『練習は実際のつもりで』、『実際は練習のつもりで』とか、
技については、『器用貧乏になるな』と言われるけど、自分の得意技とか、自分のパターンを決めてないと、いざという時に迷うんだよなあ。
…なので、監督とかコーチとかスポーツ競技では、必要なんだろうけど…」
A:「それって、何にでも言えるよなあ。」
B:「防災、接客…咄嗟の事態に、上手く対応できない。
本当は、流暢に話せるんだけど…
本当は、強いんだけど…
本当は、…」
A:「瞬時に、事態に、正しく反応が出来るというのも、すごい能力だよなあ。」
B:「大きなことを言えば、世の指導者の質は、それで決まっちゃうからなあ。」
大方は、みんな分かっている。
だから、どうすればいいの?
二人の会話は、いつもと同じで、具体的にどうするかが出てこない。
落としどころは、フワーっとしている。