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パナシ

136,父親像


 小学校四年の時、三歳の弟が百日咳にかかった。

雪深い山村で、医者に行くにも片道で五時間。

医者に行かせてくれと頼むおふくろに、祖父は「寝てりゃ治る」と言った。

医者はぜいたくだった。大工のおやじは請負先で寝泊まりして留守がちだった。

病状は悪くなる一方で、ある夜、もがり笛のような呼吸を繰り返した。顔をゆがめ、目をカーッと見開く断末魔の苦しみを見て私は泣いた。

泣き疲れて眠り込んでしまった。

夜明け前、おふくろの子守歌が聞こえてきた。

素肌に弟を抱き寄せ、「ごめんしてくれよ。オレに力がないばっかりに…」。

そばに寄ると、涙も見せずに私に末期の水を取らせた。

「よく見ておけ。人の命とはこういうものだ」。

祖父を、家にいなかったおやじを恨んだ。

昼ごろ、おやじは小雪の中を帰ってきた。

黙ったまま、白い布をはいだ。涙が見えた。立ち上がると、裏庭に行き、ガンガンやり始めた。弟のひつぎを作る姿が見えた。

痛々しかった。が、恨みは残った。

「おやじなんて…」。存在そのものを気持ちの中から消そうともした。

もともと存在感が薄かった。子供の頭の一つもなでるわけじゃない。人生訓をのたまうタイプでもない。大工仕事を誠実にこなしても、家庭には無頓着だった。

建前の祝儀で酔って帰り、稼いだ金はそのまま祖父に渡していた。祖父の言うままだった。

おやじから教えられたことはない。生活の知恵も、科学する心も、疑うことも、信じることも、すべておふくろから教わった。

 高校の願書が締め切られる前「もう三年勉強させてやって欲しい」と言う担任に、「オレが死にものぐるいでがんばるから」と言ってくれたのもおふくろだった。

 すでに、浅草のブラシ工場に就職が内定していた。おやじのような男にはなりたくない。そう思い続けてきた。

 そんなおやじにも、若い日のロマンはあった。十七か十八で浪曲師を夢見て、ゆかた一つで家出し、人気浪曲師の門をたたいた。ずーずー弁でうなったんでしょう。すぐに連れ戻されてしまった。

 私も、高校を出て十二年勤めた銀行を辞めた。子供の頃の夢が忘れられず、当時は浮き草暮らしの漫画家の道を選んだ。

その時、初めておやじに親しみを覚えた。やはり血を継いでいるのか。

 おやじは結局、時代とその貧しさから抜け出せなかったのだ。恨む気持ちは、もうないが、

おやじって何だ?と聞かれたら、たぶんこう答える。

死にものぐるいで家族を守る、そういう存在こそがおやじなんだ、と。

      矢口高雄
   1993年3月29日朝日新聞より

この記事当時は53歳でした。

 2020年11月20日に81歳でなくなられた「釣りキチ三平」などの作品で有名な漫画家矢口高雄さんの「父親への思い」です。28年ほど前、新聞で見つけ、共感することが多く、涙しながら読んで、切り抜いておいたものです。

大きなハマチが釣れたと近所の釣り好きからいただきました。
父親は富士の山のように在りたいが…
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